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<説教要約>「主イエスの兄弟たち」 2018年8月19日

ヨブ記24章1節~13節/ヨハネによる福音書7章1節~9節

熊江 秀一牧師

 主の兄弟がイエスに「ユダヤに行き、…自分を世にはっきり示しなさい」と勧めた。その教えとしるしを知っていた身内ならではの勧めである。しかし彼らはそれが信仰に結びついていなかった。血縁と信仰とはまったく別である。その人が神と出会わなければ、神の時が来なければ、信仰を持つことはできない。私たちがなすべきは、その時が来ることを信じて、祈り、執り成し、主を伝えていくことである。

 今日の箇所は、仮庵祭が近づく時期に起こった。この仮庵祭で、人々は仮小屋をつくり、過ごして、荒野の40年の旅の生活を追体験し、神の導きと神の時を思った。

 私たちは神の時が見えなくなってしまう。特に、苦難の中で、ヨブも荒野の40年の旅もそうだった。しかし、その中にも神の導きがあり、神の時が与えられていた。

 「神の時」が今日のテーマである。主イエスは兄弟たちに「あなた方の時はいつも備えられている」と告げられる。しかし同時に「私の時は、まだ来ていない」と言われる。その時とは、エルサレムに「上り」、十字架に「上り」、復活して父なる神のもとに「上る」時である。主の十字架と復活によって神の時が実現する。主イエスの兄弟でさえ、イエスを信じることができない現実。それが「この世」である。しかし主は、そんな私たちのために十字架に上られ、私たちの救いを実現してくださった。そして、私たちのために「神の時」をいつも備えてくださっている。

 夏季休暇中、西日本豪雨で被災した知花龍磨牧師夫妻と再開した。ご夫妻は「被災の日々の中で、人の思いを超えた神の時を経験してきた」と語った。神の時は備えられ、主イエスの十字架によってその時は実現している。その時を見据えて歩もう。

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