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<説教要約>「永遠の命の言葉」 2018年8月5日

イザヤ書6章1節~8節/ヨハネによる福音書6章60節~71節

熊江 秀一牧師

 教会は「聖なる教会」である。しかし、罪人の群れとして弱さもある。日本基督教団も戦時下、罪を犯した。

 主に従った弟子たちにも弱さがあった。多くの弟子が主の言葉につまづき、去っていった。主は嘆く。「この言葉につまづくとしたら、私が『上る(十字架、復活、昇天)』のを見るならば、つまずきはどれほど大きいか」

 弟子たちは御言葉を肉の思いで聞いた。だからつまづいた。信仰とは、目に見えないものを、人間の理解を越えた神のご計画を信じることである。それには精霊の導きが必要である。

 もはや主のもとには12人の弟子しか残らなかった。この12人に主は「あなたがたも離れていきたいか」と問いかけた。この問いは「いいえ」を想定したチャレンジングな問いである。するとペトロがそれに応えて、信仰を告白した。これは12人の告白である。しかしここで主は、弟子の一人であるユダの裏切りを予告する。

 これはユダだけの問題ではない。ペトロを含む弟子全員が主を見捨ててしまう。主に選ばれた彼らも主を裏切る。教会も主に召された群れである。私たちも、主を裏切る弱さを持っていることを忘れてはならない。

 それでは主の弟子の希望とは何か。それは人間にはなく、主イエスの一方的な憐れみである。私たちは主を裏切るが、主は私たちを見捨てず、十字架にかかり執り成して下さる。「あなたこそ永遠の命の言葉を持つ、神の聖者」との信仰告白に、教会の立つべき土台があり、希望がある。

 イザヤは召命の時「聖なる万軍の主」のご臨在に触れ、自分の汚れを自覚した。しかし燃える炭火で罪赦されて、預言者として遣わされた。罪に汚れた私たちも、聖なる方によって清められ、証し人として遣わされる。

 

 

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