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<説教要約>「主イエスと姦通の女」 2018年9月2日

詩編103章1節~13節/ヨハネによる福音書7章53節~8章11節

熊江 秀一牧師

 主イエスのもとに姦通の現場で捕らえられた女が連れてこられた。律法学者たちは「こういう女は石で打ち殺せ」と律法は命じるが、どう考えるかと主イエスに問うた。この問いはどう答えても不利になる。イエスを訴えるための口実であった。

<p style="font-size: 16px;"> すると主イエスはかがみこみ、地面に何か書き始めた。ここで主が何を書いたのかよりも、これが何を意味しているかが大切である。この行為によって、人々の目は女から主イエスに移った。人々の非難も、女から主イエスに移った。それは身を低くし沈黙して人の罪を問われる神の子羊の姿である。そして主は、身を起こして告げる。「罪を犯したことのない者が、この女に石を投げなさい」。すると年長者から立ち去り、主イエスと女だけが残った。自分の罪の姿を問われる時、だれも人を裁くことはできない。</p>
<p style="font-size: 16px;"> しかしそれで終わりではない。この女は、自分を本当に裁く方が目の前におられることを知る必要があった。女はこの方を「主よ」と呼んだ。すると主は宣言した。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい」。</p>
<p style="font-size: 16px;"> この宣言の「わたしも」は、神から裁きを委ねられた「わたしも」である。すなわち「わたし」があなたの罪の代価を支払う、という罪の赦しの宣言である。主イエスは十字架によってこの女の罪を担われる。今やこの宣言は、私たちにも与えられている。</p>
<p style="font-size: 16px;"> この出来事は括弧の中に入れられている。それは原本にはなく、後の時代に記されたということである。それは姦通の主の赦しを受け入れがたいという思いからである。しかし教会は後に、その過ちに気づいた。「主の御計らいを、私たちはなにひとつ忘れてはならない」。この主の十字架の赦しの中で、秋も歩んでいこう。</p>

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