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<説教要約>「幸いなるかな、心の貧しき者」 2018年9月23日

詩篇70章2節~6節/マタイによる福音書5章3節

高橋 真之伝道師

 主イエスは、ご自分のところに集まった群衆たちを前に山に登られ、そこから「山上の説教」と呼ばれる一連の説教を語られた。この山上の説教の第一声は「幸いである」という言葉で始まり、主イエスは何よりもまず、キリスト者の「幸い」に関して語られたのである。

 しかし、主イエスが語った幸いの言葉に私たちは戸惑いを覚える。なぜなら、主イエスが幸いであると言われた人たちは、私たちの常識では誰一人として幸いとは思えないからである。悲しむ者や迫害される者がなぜ幸いなのだろうか?また、心の清い人や平和を実現する人とは、清くない現実や平和ではない現実で必死に戦っていかなければならない人のことである。それは私たちにとって幸いなことだろうか?

 そこで、私たちは第一の幸いの言葉「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」という言葉にしっかりと聞く必要があるだろう。なぜなら、この言葉こそが、すべての幸いの土台となっているからだ。

 「心の貧しい」とは、私たちと神の関係が徹底的なまでに破綻している状態を示す。つまり「心の貧しい人々」とは、まさに私たち罪人のことである。しかし、主イエスは、その罪人にこそ「天の国」が与えられるという。「天の国」とは、神が私たちとともにあり、私たちのすべてを支配してくださる世界のことである。そしてこの天の国は、私たちの神である主イエスがこの地にお生まれになったことによって、私たち一人ひとりのところで始まっているのである。

 主イエスは、私たちがどんなに苦しくて厳しい現実の中にあろうとも、そこで天の国を実現し、私たちとともにおられ、幸いを与えてくださる。だからこそ私たちは幸いなのである。

 主が与えてくださる幸いは、私たちが作り出す儚い(はかない)幸いと違って、天の国の上に据えられた決して揺らぐことのないものである。私たちはこの幸いに信頼して歩んでいこう。

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