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<説教要約>「世の光、主イエス」 2018年9月9日

詩編36章6節~10節/ヨハネによる福音書8章12節~30節

熊江 秀一牧師

 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。主イエスは仮庵祭の時、神殿の布陣の庭に高く据えられた燭台を前に宣言した。

 私たちが主イエスの光に照らされて歩むとは、荒野で民が火の柱に導かれたように、外側から照らす主の光に導かれることである。しかし同時に、光である主をお迎えし、我が内に主の光を灯していただくことでもある。その時、私たち自身が世の光となる。

 しかもこの光は「命の光」である。主イエスの光は私たちを永遠の命へと導く。主の光を灯される時、私たちは罪と死の暗闇でなく、命の道を歩む。

 しかしながら、この主の宣言にファリサイ派の人々が文句を付けた。彼らはイエスが自己証言をしているから真実ではないと言う。それに対して主が「父なる神が証人である」と答えると、彼らは父なる神を連れてくることを求めた。ファリサイ派の姿を笑って済ますことはできない。主イエスの招きに耳を貸さず、神が来て証拠を示さなければ信じないというのは、私たちの現実だからである。

 主イエスは21節以下で、罪が死をもたらすことを繰り返して語る。それは、「『わたしがある』ということを信じない」からだと告げる。これは逆の意味で私たちに語られている。罪のうちに死ぬしかなかった私たちが「わたしはある(イエスは神である)」と信じる時、命を得るという意味である。

 そしてそれは「人の子をあげた時」、すなわち主が十字架にあげられ、天で栄光を受けられるとき明らかになる。今はその時である。仮庵祭で歌われた詩編の歌「あなたの光に、わたしたちは光を見る」は、主イエスによって実現した。世の光である主に照らされ、光の内を歩もう。

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